高瀬川より浪江、双葉両町にまたがる用水路で元禄年間(1688~1704)に谷田日清が藩令により間居したものであるが、寛政年間(1789~1801)に度々の水害を受け復旧費2,000両、人夫50,000人を要したという記録があり、難工事の連続で石樋などの独特の工法が各所見られた。
岩壁の下に洞門を人力で堀り上げました。
洞門入口の除水吐水門は毎日江守が手で操作をしていました。
現在も水門にコケ、シダがはえる姿を現し心を休ませてくれます。
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